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ルポ労働と戦争 島本慈子/著 岩波書店

どうしたらいいんでしょうね

かみしめるように読みました。

(池田市立図書館書評)
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by okawghumpe | 2010-03-30 00:32 | 図書館書評

Poemo de Suzuki Yukiko

ブージー・クラクションの鈴木さんの詩(三月三日付け)。エスペラント版。(許可済み。)
Jen estas poemo de Suzuki Yukiko kiun ŝi skribis en sia blogo je la 3a de mars. Mi tradukis. http://www.bugycraxone.com/diary/suzuki/

#1

Iru tien kien vi volas
eĉ sen iu ajn publiko,
eĉ sen iu ajn kiu rimarkas vin.
Ĉiuj iru tien kien vi volas.

Eble sekrete
aŭ ridetante
aŭ 3 sekundojn
aŭ fremdan landon...

"Ho, gajege!" diri poste kaj
rampi en la liton,
tion mi ŝatas.

Ĉiuj iru tien kien vi volas.
Iru tien kien vi volas.
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by okawghumpe | 2010-03-23 22:35 | Esperanto

En dikt av Suzuki Yukiko

ブージー・クラクションの鈴木さんの詩(ブログ三月三日付け)。スウェーデン語版。(許可済み。)
Här är en dikt av Suzuki Yukiko som hon skriver i sin blogg den 3:de mars. Översatt av mig.
http://www.bugycraxone.com/diary/suzuki/

#1

Ta er dit ni vill
även utan någon publik,
även utan någon som lägger märke till er.
Ta er dit ni vill alihop.

Kaske i smyg
eller skrockande
eller i 3 sekunder
eller utomlands...

"O, det var roligt" säger man sedan och
kryper till sängs.
Det tycker jag om.

Ta er dit ni vill alihop.
Ta er dit ni vill.
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by okawghumpe | 2010-03-23 22:28 | Svenska

仕事

私は本業は画家なのですが、いよいよ家賃が払えなくなったので、パートをします。

今の世の中、ホームレスになっても働かなければならないのなら、住居を持っているうちに働いた方がいいんじゃないかな、と思いました。

ハローワークで登録して、ある法人からいきなり「今日面接に」と言われて、履歴書を買って、証明写真を撮って、面接に行って、たぶん採用してくれそうです。素早い展開でした。パートだからかな。

前の前の仕事と同じく、認知症の人のグループホームだけど、株式会社ではなくて非営利団体で、本当に普通の日本家屋で、雰囲気が非常に良かった。面接の職員もいい人そうだった。

私は学歴社会に反対の立場なので、履歴書の最終学歴には保育園卒と書きます。

その職員の方は、「保育の学校を出たの?」と誤解しました。「いや、保育園卒ということです」と言ったのですけれど、分かってもらえたかどうか。「違います」と言ったのに対して「残念ね」とは言われましたが、突っ込まれなかったので、学歴は話題になりませんでした。

そういえば、前の仕事を辞めた理由も尋ねられなかったし。

こういう所でなら頑張りたい、と思える所だった。
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by okawghumpe | 2010-03-23 20:43 | 書評以外の日本語

Kion mi povas fari?

Diogeno, senhejma filozofo en Grekio, loĝis en barelo.
Kiam Korinto, greka urbo, minaciĝis kun sieĝo de Filipo, reĝo de Mekedonio, kaj ĉiuj loĝantoj okupate faris agadojn, unu ŝlifis siajn armilojn, kaj unu portis kaj kolektis ŝtonojn, kaj unu pretigas la muron, kaj Diogeno vidis tion, do li rapide kolektis sian mantelojn kaj avidege rulis sian barelon tien kaj reen sur la stratoj. Kiam oni demandis lin kial li faris tion, li respondis: ankaŭ mi okupiĝas kaj rulas mian barelon. Mi devas ne esti sola libera marŝanto inter tiel multaj laboremaj homoj.

Johannes Climacus aŭ Søren Kierkegaard pluigis:
Tia konduto almenaŭ ne estas sofista, se Aristoteles ĵuste klarigas ke la sofista maniero estas tio, kun kiu oni lukras monon. Tia konduto almenaŭ ne povas miskomprenigi iun, ĉar estas nepenseble, ke iu rigardos Diogenon kiel la urban savanton kaj bonfaranton.
(El Filozoferoj de Johannes Climacus / Søren Kierkegaard)

Diogeno devegis ruli sian barelon.
Mi volus ruli barelon kune.

Itimura Misako ekkuŝis kaj elmontris kometojn, kiel Diogeno rulas la barelon.

Oni antaŭenpuŝas planlingvojn kaj partoprenas en civilaj movadoj, kvazaŭ kiel Diogeno rulas la barelon.

Mi volas ĉe la sama flanko kiel Diogeno.

Lastjare 1050 afganaj infanoj estis murditaj ĉefe de la usona armeo.
La nombro estas sensignifa kiam temas pri unuopaj vivoj, sed ĝi verŝajne signifas ke estas sufiĉe generale murdiĝi.
Kial ili estas mortintaj kaj mi vivas, tion mi ne komprenas.

Mi volas esti ĉe la sama flanko kiel la murdiĝitaj infanoj.
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by okawghumpe | 2010-03-22 09:42 | Esperanto

日展

はじめに。結果的に長文です。

日展に行ってまいりました。
日本画のすごさに圧倒されました。
勉強になったというよりは、ぶん殴られた思いでした。
洋画の部門とは天と地ほども違います。全体的に素晴らしい。
その大きな絵が絵としての面白さを保ち、絵肌も目に心地良い。
遠くで見ても、近くで見ても、いい絵というのが理想だ、と常々私は思っているのですが、その理想にぴったり合っているのです。
新しい表現があって、いきいきとしている。
最先端を行く人は日本画に来ているのではないか、と思う。私が今まで日本画に馴染みがなかったせいでしょうか。

先に言ったように、日本画部門は全体的に素晴らしいのですが、中でも特に印象に残った画家名を挙げます。

五十嵐佳容さん。「大阪の虎 天王寺の豹 神戸の獅子」。
これには、ぶん殴られたというより、頭が粉々に砕け散ったように思いました。すごい。

吉村年代さん。「乳を吸う」大きくて良い絵です。
長谷部日出男さん。「道」。この大きさでなければならないと感じさせる大きい絵。日本画部門は全体的にそうなのですが、特にこの絵にはそう感じます。
中村徹さん。「カウンターのふたり」。異様です。
山下保子さん。「丘の上の家」。白が素晴らしい。
袴田規知代さん。「夏の昼下り」。見事さに涙が出ました。
田島奈須美さん。「猫、磊悟隴の夢」。素晴らしい。
手塚恒治さん。「旅立つ朝」。新しい表現を感じます。
津田直樹さん。「壁」。素晴らしい絵肌。
長谷川喜久さん。「韻」。緑の色の素晴らしさ。
野田夕希さん。「待ちあわせ」。涙を搾り出したくなるくらい素晴らしい。
米田実さん。「猩々」。すごい。涙が出ました。
諸星美喜さん。「ゆらり」。いい絵です。
石崎誠和さん。「服を脱ぐ」。なんと圧倒させる絵か。
佐藤秋子さん。「夏日」。涙が出ました。
能島浜江さん。「四又の百合」。さすがです。初対面だけど、さすが、と思ってしまう。
片山侑胤さん。「翠」(みどり)。すごくいい絵です。
鍵谷節子さん。「赫い葩」(あかいはな)。きれいです。
伊東正次さん。「洞杉図」すごい。わが師の石井先生に見せたい。
井口由紀子さん。「迷走」。いい絵です。
小熊香奈子さん。「あなたへの手紙」。面白い。
熱田守さん。「穏」。どっしり感が良い。
山田まほさん。「牡丹玄想」。すごい良い絵です。
佐藤陽子さん。「水に眠る」。色付けていくやり方の素晴らしさ。
細見香都子さん。「風薫る」。調和が取れている。
中園ゆう子さん。「時の雫」。時計のような小細工を使うと、得てして陳腐になりがちですが、そうならないのは、色が良いせいでしょう。
廣岡通正さん。「納西の人」。ただ見とれました。

工芸美術部門も良かった。
漆の美しさに涙が出ました。後藤健吉さんの「心象風景III」は漆の美しさをうまく出していると思う。
山本唯与志さんの染め物「染額『樹曼荼羅』09」も素晴らしいと言うしかない。

展示の仕方に一言。日本画は一階でして欲しい。二階でやっていることを知らないで、私は危うく帰るところでした。

最後に。美術館などめったに行かない私が行けたのは、ある方のご好意によるものでした。美術館がこんなにすごい所だとは思っていませんでした。言葉に尽くせないほどに感謝。
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by okawghumpe | 2010-03-22 00:03 | 書評以外の日本語

Vad kan jag göra?

Diogenes, hemlös filosof i Grekland, bodde i en tunna.
Da Corinth blev truet med en Beleiring af Philip, og alle Indvaanere vare i travl Virksomhed, idet den ene pudsede sine Vaaben, den anden bar Steen sammen, en tredie udbedrede paa Muren; og Diogenes saae det, da samlede han i en Skynding sin Kappe sammen, og trillede sin Tønde med stor Iver frem og tilbage igjennem Gaderne. Da man spurgte ham, hvorfor han gjorde det, svarede han: ogsaa jeg er beskæftiget og ruller min Tønde, at jeg ikke skal være den eneste Lediggænger mellem saa mange flittige Mennesker.

Johannes Climacus eller Søren Kierkegaard fortsrätter:
En saadan Adfærd er idetmindste ikke sophistisk, dersom ellers Aristoteles forklarer rigtigt, at den sophistiske Kunst er den, ved hvilken man tjener Penge. En saadan Adfærd kan idetmindste ikke forskylde nogen Misforstaaelse; thi det var da vel utænkeligt, at Nogen kunde falde paa at ansee Diogenes for Stadens Frelser og Velgjører (...).
(Ur Philosophiske Smuler av Johannes Climacus / Søren Kierkegaard http://www.bjornetjenesten.dk/teksterdk/phil-smuler.htm)

Ja, Diogenes måste rulla sin tunna.
Jag skulle vilja rulla en tunna med.

Itimura Misako lade sig och föreställde kometer, såsom Diogenes rullar tunnan.

Man främjer konstgjorda språk och deltar i medborgarrörelse, på sätt och vis såsom Diogenes rullar tunnan.

Jag vill vara på samma sida som Diogenes.

I fjol mördades 1050 afghaniska barn av huvudsakligen USAs armé.
(http://www.migrationsverket.se/include/lifos/dokument/www/10012902.pdf)
Siffran är betydelselös när det gäller de enskilda barnens liv, men man kan nog säga att den visar att det är ganska vanligt att bli mördad.
Varför är de döda och jag lever, det är det som jag inte kan förstå.

Jag vill vara på de mördade barnens sida.
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by okawghumpe | 2010-03-21 02:13 | Svenska

私に何ができるか

古代ギリシャのホームレスの哲学者ディオゲネスは樽の中に住んでいた。
コリントの町がマケドニア王ピりッポスによって攻囲されようとしたとき、住民は一人残らずせわしく立ち働いていた。ある者は武器を手入れし、ある者は石を運び、ある者は城壁を補強するといった具合に。このさまを見たディオゲネスは、敷いていたマントを大急ぎでたたむと、例の愛用の樽(たる)を夢中でころがして、街(まち)を行ったりきたりしはじめたのだ。なぜそんなことをしているのかと人が尋ねると、ディオゲネス先生答えていわく、働き者ばかりこんなに大勢そろっているなかに、このわし一人だけのらくらしていては相すまぬから、わしも働いてこの樽をころがしとるのじゃ。(原文注。ルキアノス『歴史はいかに記さるべきか』第四章。)

ヨハンネス・クリマクスことセーレン・キルケゴールは続けてこう言う。
こうした振舞いは、少なくともソフィスト(詭弁家)のそれではない、もしアリストテレスが、ソフィストの術とは金もうけの術であると説明してくれているのが正しいとすれば。しかり、こうした振舞いは、少なくともいかなる誤解をもひき起こす余地のないものである。だれにしたって、このディオゲネスを町の救い主もしくは恩人であるなどと考えることはおよそありえないだろう。
(ヨハンネス・クリマクス「哲学的断片 または断片の哲学」杉山好訳『世界の名著51 キルケゴール』責任編集桝田啓三郎 52-53頁)

転がさざるを得ないから転がすんだ。

ディオゲネス先生と一緒に転がしていきたい。

いちむらみさこさんが彗星を表現するのは、ディオゲネスが樽を転がすようなものだ。

人工言語を推し進めたり、市民運動をすることだって、ディオゲネスが樽を転がすような、そういう面はある。

ディオゲネス先生と同じ側に立ちたい。

去年アフガニスタンで主にアメリカ軍に殺された子供の数は1050人。
数字には意味はない。一人ひとりの命は量では測れない。しかしこの数字は、子供が殺されることが当たり前だという状況を表していないだろうか。
なぜ彼らは死んだのに私は生きているのか。
不思議でならないのです。

殺された子供の側に立ちたい。

ヨハンネス・クリマクスことセーレン・キルケゴールのディオゲネスの描写は気に入っているので、これから各言語でその記事を載せます。
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by okawghumpe | 2010-03-21 01:55 | 書評以外の日本語

重力と恩寵 シモーヌ・ヴェーユ/著 春秋社

言葉の効果

「人間は、行動とその結果のあいだに、努力と作品のあいだに、外部の意志が介在するかぎり、奴隷である。」(264頁)こういうはっきりした言葉が必要なのだ。言葉は何の役に立つか。本を読むだけでは何も変わらないけれど、人を動かす力を持っているのも言葉だ。人を動かすには、単純なことを単純に表すあざやかさが必要だ。単純なことが見えなくなっている人にそれを分からせるだけの素朴さが必要だ。これを読んだ人は、これを読んだ私は、この状況に対して何をするか。著者とは部分的に共感する。なぜ部分的かと言うと、分かりづらい文章が多いからだ。翻訳の問題と片付けていいのか、原文の文章自体がこうなのか、一読して意味のつかめない語句の組み合わせがある。広く一般に向けられていないと思うが、元々は出版目的に書かれたものではないようだから、これはこれでいいのかもしれない。

(池田市立図書館書評)


本書からの引用(二重引用を含む)。
『カラマーゾフの兄弟』のなかのイワンのせりふ。「この巨大な塔の構築がどれほどすばらしい結果をもたらすとしても、それが一人の子供の一滴の泪にも値しないとしたら、そんな塔を築くのはおことわりだ。」
私はこの考えかたに全面的に同意する。一人の子供の泪をつぐなうものとしてどんな理由が設けられるとしても、私はこの泪を容認できない。人間の知恵で思い浮かべられるような理由であれば、どんな理由にせよ絶対に否である。ただ一つ例外がある。ただしそれは超本性的な愛によってのみ理解しうるものであるが、それは「神の御旨だから」という理由である。そしてこの理由のためだったら、私は子供の泪ばかりか、悪にすぎないような世界さえも容認するであろう。(133頁)

「私は裸だったときにあなたたちが服をくれた」

「私が飢えていたとき、あなたは食べさせてくれた」

(それぞれ「[マタイ福音書二五・三六‐九]」からの引用とある。84頁)
 

(マタイの引用の上の文は「は」と「が」が逆だろう。)
聖書の言葉はこんなにあざやかだったろうか。
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by okawghumpe | 2010-03-17 10:26 | 図書館書評

ロジバンで、おおかわじゅんぺい

自分の名前を外国語でどう言うか、そして綴るか、というのは、特に人工言語をやっている人などとは議論が泥沼になる問題で、十人十色の考え方がありますけど、ロジバンでは私はジュンペンという名前にしました。苗字と合わせるとオーカウジュンペン .okau.junpen.

とりあえず、母音で終わってはならないので、sを付けるのが普通みたいだけど、私はnにします。
しかし、自分の名前だからこんなに悩むのであって、おおかわじゅんぺいが他人だったら、.okaua.junpeis.とでもしたかもしれない…。

エスペラントやスウェーデン語でも私は自分の名前は変な風に綴っていますけど、他人の日本人の名前は訓令式で綴るのが無難だと思う。

でも自分の名前をZyunpeiとは絶対に綴りたくないので、矛盾してますね…。


とりあえず、今や標準となっているらしいヘボン式(イギリス語式。Jumpeiと綴る)には私は反対の立場なので、その上で、ヘップバーンをヘボンと表記するような音重視のやり方が望ましいと考えますけど、音の聞こえ方というのは人によって違う可能性があり、当人が、どう綴るかを各言語ごとに決めていく、という一見笑い事のようなことをする必要がある、とまじめに考えています。そして分からない場合は訓令式でいく。(しかし、もしロジバンやエスペラントと対応するヘボン式のような表があったら、それに従うに越したことはない。)(しかしヘボン式のような表が各言語ごとにあったら、尚良い。)
というか、音重視と言いながら、私は自分の名前も .jumpen. じゃなくて .junpen. としているし、矛盾しまくりですけれど、要するに、当人が決めればいいのです。


例えば、イギリス語は私は使わないので、イギリス語の中ではどう綴られていようが私は気にしない、ということでもあります。


(なぜ.junpen.にmではなくnを使ったかというと、漢字を考えたからです。中国語でも朝鮮語でも純はnで表記される。もし三平という名前だったら、.sampen.とmを使ったかもしれない。三位一体sam.mi.it.taiという言葉もありますし。)


整理をすると、まず名前は当人が好きに決めることだ。
しかし当人がその言語でどう綴っているかが分からない場合は、その言語に対応する日本語の音素の一覧表に従うのが望ましい。
あるいはロジバンやエスペラントに対応する五十音の表が望まれる、ということですが、その表を誰が決めるのでしょう?

名前を考えるだけでえらい苦労をしましたけれど、新しい言語を学ぶ時のこれが第一歩です。


*2011年5月26日付けで付け加えますと、 .okau.junpen. にすると言っていますが、苗字と名前をこのように間を空けて分けるなら、苗字の部分も子音で終えるべきです。よって .okaun.junpen. になります。
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by okawghumpe | 2010-03-14 03:45 | 書評以外の日本語