日本育英会の借金

最近になりブラックリストを作るなど、借金の取り立て機構という本性をむき出しにしている日本育英会(名前が変わって今は「独立行政法人日本学生支援機構」ですか)から私も学生であった頃に借金をしました。

十四年の間返済し続けるという契約を取り交わして、今まで払い続けてきたわけです。

何でそんな契約をしたのだろう?
私は学校という所も学生という身分も大嫌いだし、積極的に学生生活を選んだのではないことは確かです。学生でいる間、これでいいのか、とずっと悩んでいました。

それはともかく、やはり借金をしていて良かった、と今思う。

返済が二ヶ月遅れた、と連帯保証人の親に通知し、さらにはこれ以上滞納するならば一緒に保証人になってくれた叔父にも通知すると脅す、この醜さ。
(これ以上延滞すると連帯保証人に電話で通知します、という通知を受け取って、私は急いで口座を確認したのに、引き落とし日の前から親に書面で通知するのですね。あるいはどこかにそうすると書いてあったのかな?葉書はもう捨ててしまった。)

借金取立てのこういう醜さは、実際に延滞せざるを得ないという状況を体験しないと分からない。

金貸し業というのは人に対して親切な仕事では絶対にない。親切なら、貸すのではなく、あげるはずだ。
しかし契約をしたのだから当然だ、と言われれば、それはそうです。しかし当然かどうかはともかく、醜い、ということを私は言いたいのだ。

借金をしたにしても、苦労なく返済する限りは、この醜さは分からない。
頭で理解することではないのだ。

貧乏人であることは、こういう醜さと付き合わされるということなのですね。

貧乏人が怒りっぽくなるのも当然だ、と思う。この醜さに私も怒りで一杯になりました。

しかし美しいものが金持ちだけの特権だとしたら、そんな美しさは糞くらえだ、と思います。

表現者たるもの特権者であってはならない、というのが私の信念です。
特権者であるならば、特権にあずからない人の共感は得られない。
社会の特権者だけに通じるものを表現したとして、何が表現者か。

シモーヌ・ヴェイユが「労働者に必要なのは詩だ」と言った意味が、今分かる気がする。
貧乏人は醜さに囲まれている。
[PR]
by okawghumpe | 2010-06-19 20:32 | 書評以外の日本語
<< だめよ、デイビッド! デイビッ... 実用ビジネス日本語 TOPラン... >>