私に何ができるか

古代ギリシャのホームレスの哲学者ディオゲネスは樽の中に住んでいた。
コリントの町がマケドニア王ピりッポスによって攻囲されようとしたとき、住民は一人残らずせわしく立ち働いていた。ある者は武器を手入れし、ある者は石を運び、ある者は城壁を補強するといった具合に。このさまを見たディオゲネスは、敷いていたマントを大急ぎでたたむと、例の愛用の樽(たる)を夢中でころがして、街(まち)を行ったりきたりしはじめたのだ。なぜそんなことをしているのかと人が尋ねると、ディオゲネス先生答えていわく、働き者ばかりこんなに大勢そろっているなかに、このわし一人だけのらくらしていては相すまぬから、わしも働いてこの樽をころがしとるのじゃ。(原文注。ルキアノス『歴史はいかに記さるべきか』第四章。)

ヨハンネス・クリマクスことセーレン・キルケゴールは続けてこう言う。
こうした振舞いは、少なくともソフィスト(詭弁家)のそれではない、もしアリストテレスが、ソフィストの術とは金もうけの術であると説明してくれているのが正しいとすれば。しかり、こうした振舞いは、少なくともいかなる誤解をもひき起こす余地のないものである。だれにしたって、このディオゲネスを町の救い主もしくは恩人であるなどと考えることはおよそありえないだろう。
(ヨハンネス・クリマクス「哲学的断片 または断片の哲学」杉山好訳『世界の名著51 キルケゴール』責任編集桝田啓三郎 52-53頁)

転がさざるを得ないから転がすんだ。

ディオゲネス先生と一緒に転がしていきたい。

いちむらみさこさんが彗星を表現するのは、ディオゲネスが樽を転がすようなものだ。

人工言語を推し進めたり、市民運動をすることだって、ディオゲネスが樽を転がすような、そういう面はある。

ディオゲネス先生と同じ側に立ちたい。

去年アフガニスタンで主にアメリカ軍に殺された子供の数は1050人。
数字には意味はない。一人ひとりの命は量では測れない。しかしこの数字は、子供が殺されることが当たり前だという状況を表していないだろうか。
なぜ彼らは死んだのに私は生きているのか。
不思議でならないのです。

殺された子供の側に立ちたい。

ヨハンネス・クリマクスことセーレン・キルケゴールのディオゲネスの描写は気に入っているので、これから各言語でその記事を載せます。
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by okawghumpe | 2010-03-21 01:55 | 書評以外の日本語
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